『しんしんと メトロノームの音がきこえる』を語るのはものすごくむつかしい
なにしろそよさん自身が歌を論じられたり講じられたりするものと考えていないからだ
難解な語句も曖昧な表現もていねいに排しているし
なによりじぶんを表現しようなんて欲がない
書くことによってじぶんを聖別化したり
ちょっとでもえらく見せようなんて意識もない
よく見せようとしないことよりめんどうなのは自己卑下の演出で
一周して卑下のパロディ化なんてめんどうなものも最近は多いけど
ことばもじぶんも飾らず現象の前に立っているけど
泥臭い生活詠にならないのが
斉藤そよさんの距離感だ
じぶんがいて世界があるけれど
その一人称の手前にいわば「零人称」があるとおもえる
そのとき斉藤そよが歌を詠んでいるのではなく
もはや斉藤そよが詠まれているとしかいえないような無限遠がある
いい日です足りないものは何もなく胃も痛くなく泣きたくもない
これを読んで幸せだと感じられないのはなぜだかわからない
いい日ですということばの裏に張りついた圧倒的な寂しさが見えるとき読む者はじぶんを恥じるしかない
歌が歌を裏切って作者と読者の隙間に無限遠が生まれると感じる
本籍はみずうみにおく ほとぼりがさめるころには雪も降るから
本籍がみずうみにあるとしたら人間であって人間でない
「ほとぼり」ということばは犯した罪をおもわせる
その罪は人間を離れなければいけないほどの罪だし
そのうえさらに降る雪に隠されることさえ願う
叱られて叱られたから やっと泣く 理由はだから叱られたから
何もいっていない トートロジーである
だからこそ恐ろしいのは、たったひとつの「やっと」が立てる音だ
叱られて泣いたじぶんを「やっと」泣いたというじぶんだ
頑固さを責めているのか 非難されていることに気づかない鈍さを責めるのか この「やっと」の単音は胸をえぐる
野いちごを摘んで煮つめて暮らせたら いいね いいよね そう思えたら
「野いちごを摘んで煮つめて暮らせたら」いいのではない
「そう思えたら」いいというのだ
そのうっすらとしているのに致命的な転調が痛い
やさしくかわいらしい手つきで北海道の息づかいを詠んでいくそのみずみずしさ
日差しの暖かさや呼吸する喉に冷気さえ感じるような読む愉しみを
形のない距離感だけが支えている
短歌の中だけの話ではなく
この純度は希有だとおもう
この空はこころをこめて潮騒をきいてしまったあとのさびしさ / 斉藤そよ
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